4苦労を何も経験していない弁護士が、現実的な代替案も示さないまま無責任に体罰禁止論を展開することへの不信感です。 弁護士が教師をやってみて、生徒指導は最も難しい教育活動だと思います。なぜなら、教科指導や進路指導は弁護士としての経験や知見が活用できますが、生徒指導は弁護士の人権感覚と相反する要素を含むからです。そのため、スクールロイヤーが生徒指導や体罰の事案に関わる場合は、教師が持つ教育目的の目線にも考慮しながら慎重に助言しなければならないのです。序章 本書を読まれる方へ(3)不登校は弁護士目線と教師目線で評価が異なる? 人権の専門家である弁護士目線からは、不登校は「学校に行かない自由」として理解することはそれほど不自然なことではありません。このことは、憲法が子どもに教育を受けさせることは保護者の義務であると規定する一方で、子どもには権利として教育を受けることが規定されていることからも法解釈として妥当とも思われます。筆者も弁護士の立場であれば、その考え方に賛同するでしょう。 しかし、不登校の理由はいじめのように、学校や周囲の人間に過失がある場合だけではありません。精神疾患などの病気、虐待や両親の不仲によるストレスなどの家庭環境、些細な人間関係のトラブルなど、様々です。それらの問題は、学校に行かなければ解決するのでしょうか。人生を歩んでいく時に、自分の思いどおりにならないことや他人から否定的に評価されることは山ほどあります。そうした将来のことを考えた場合、学校に行かなくとも問題を解決していく能力や、他者との集団関係で学ぶ忍耐力・コミュニケーション能力が付くのでしょうか。 弁護士が教師になって、いつも子どもが来ないイスと机がある光景を見た時、本当に人権の視点のみから「学校に行かなくてもよい」と結論づけることを容易に受け入れることができるでしょうか。不登校という現象を見る目線は、弁護士と教師で全く違うのです。
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