講家上
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第1章 訴訟と非訟33)前述のように,新堂教授は「どんな実体的利益について,裁量的かつ形成的な裁判形態になるような実体法規を作ることが許されるかという実体法の規制の問題に帰着し」,手続上の規制は存在しないのではないかという疑問を呈されていたが(第2の2⑴参照),その議論の妥当性を如実に表す例ではないかと思われる。18でも要は法律構成及び説明の問題であり,立法者のフリーハンドが現出しているようにみえる。33) 以上のように,実際の立法のいくつかの局面でも,立法者のフリーハンドは広く,判例がそのようなフリーハンドを容認しているのではないかという前述の仮説が妥当しているように見受けられる。2 学説の無関心の理由 以上のような判例や立法の動向に関連して,この2分論そのものについての学説の関心は,それほど高くないのが現状のようにみえる。その点には,いくつかの理由が考えられるかもしれないが,筆者は以下のような見方をしている。 すなわち,訴訟・非訟2分論によって決定的な違い(1か0かの違い)が出るのは,公開問題だけである。それ以外の手続保障の問題については,憲法32条が適用されても,判例法理を前提にすれば,ほとんど保障されるものはないことになる。これに対し,学説の主たる関心は,判例法理のうち,憲法32条と憲法82条の対象の同一性の問題及び憲法32条の保障内容の問題であり,この点について厳しく判例法理を批判する。その意味で,2分論の論点について,両者はやや「すれ違い」の観を呈しているが,これは,公開問題に関する学説の関心の低さを反映している可能性がある。すなわち,学説は,そもそも全ての事件(訴訟事件を含めて)について,必ず審理を公開しなければならないとは考えていないのではないかと思われるからである。 この点について興味深い論述を展開するのは,過料の決定に関する最大決昭和41年12月27日(民集20巻10号2279頁)における田中二郎裁判官の補足意見である。すなわち,「秘密・暗黒裁判が恐怖の的とされた時代における裁判と現代における裁判との間には,裁判の対象や裁判のもつ意義も著しく変り,裁判所が積極的に個人の生活関係に介入すべき範囲およびその態様もかなり変ってきている。(中略)このような事情のもとに,裁判の公開・対審

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