2_未来
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あとがき652 大学院生活を終え、それぞれの道を歩み始めた後は、たまに学会や研究会で会うだけになったが、私が1993年に、棚村君が1996年に早稲田に戻ってからは、ともに早稲田家族法学の歴史の一端を担うこととなった(この点については、最近の棚村君の論文「早稲田家族法学100年の軌跡」早稲田大学法学会編『早稲田大学法学会百周年記念論文集[第二巻民事法編]』(成文堂、2022)を参照)。 学内では、棚村君は、早稲田に戻って早々の時期に二人の学部長の下で連続して教務主任に任ぜられ、法学部校舎の建て替えや、ロースクール設立に伴う多様な学部業務など、八面六臂の活躍を見せた。その後私が学術院長を務めたときには、その経験をもとに、時々あった意見の対立も含めて、最も頼りになる相談相手、支持者となってくれた。 講義は二人で分担していた。研究室の院生は往来自由で、求めてきた者に対しては共同で指導した。ロースクールができてからは、二人とも併任教授となったため、教授会や委員会は2倍となり、学部、法学研究科、ロースクールと授業の負担も増えた。梶村太市先生(前判事)、榊原富士子先生(弁護士)が実務家教授として着任されたが、主として実務教育科目を受け持たれていたので、われわれの負担の緩和は気分的なものにとどまった。しかし、梶村先生や榊原先生、後には大塚正之先生(前判事)や松原正明先生(前判事)を交えての家族法の授業体制は充実しており、『家族法実務講義』(有斐閣、2013)という大きな副産物も生まれたし、他学にはない実習的な「家事クリニック」の授業も履修者が多かった。このクリニックの授業のために、棚村君も私も弁護士登録をし、学内に設置された弁護士法人早稲田大学リーガル・クリニックに所属したが、ここでも人間関係に消極的で、法律相談のような場に身を置くことが苦手な私は、彼に引っ張ってもらう一方だった。棚村君はクリニック案件以外にも弁護士活動に携わり(ときどき私も付き合わされたが)、私などの眼から見れば、研究、教育をはじめ学内外の業務だけでも忙しいのに、どこにそのような馬力があるのか不思議なくらいだった。 棚村君は、東京で唯一のインターカレッジな家族法の研究会である「家族と法研究会」の代表を務めている。この研究会は1985年に、磯野誠一先生、石川稔先生、三木妙子先生によって創設され、以来、原則として毎月

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